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By 八壁ゆかり
1:「場違いな害虫」
今朝、自宅マンションのトイレで目の前の白いドアを見ていたら、二日ほど前に言われたひとことが千登世の頭の中にぽこんと湧いて出た。もう声も思い出せない男の台詞で、音声を失ったそれは乾いた質感で千登世の後頭部に張り付いた。
女らしくねーな。
言ったのは先日退職した同僚で、さして親しくもなかった。彼にそう言わせたのは、千登世の普段の身なりや送別会での何気ない言葉(「私がその辺の恋愛ドラマを嫌うのは、好きな人が後ろ好きだったらどうしよう、それってやべえな、私そこまで対応できるかな、的な人間じみた苦悩が排除されているからです」)で、女らしくないとは言われ慣れていたし自分が悪いとも思っていなかったが、頭の内側にこびりついたそれはなかなか剥がれなかった。
そして次の瞬間にはあの熱を帯びたかゆみを察知し、中指でそれを確認すると、千登世は肩を落とした。いくら女らしくなくても身体はまごうことなきメスだよチクショウ、と舌打ちをする。
今千登世は、遺憾ながら見慣れてしまった待合室で、片耳にだけイヤホンを挿してアメリカの古いパンクを聞いている。日当たりは良いが壁が少々黄ばんだ待合室には、妊婦が三人、妊娠しているのか単に太っているのか分からない女性が一人、それから若い男性に付き添われた女性が居て、彼らの大半は赤ちゃんの命名辞典、育児雑誌か窓際のテレビが垂れ流すワイドショーに夢中だった。肥満の女性は電磁波などお構いなしといった調子でスマートフォンをタップしている。千登世の後ろから、若い男女の控えめな笑い声が聞こえた。背を向けて座っているので彼らの表情までは分からないが、恐らく男は今、父性というものの素養を培っている。千登世の視線は次第に下がり、表面の割れた革のソファを通過して自分のコンバースのスニーカーまで落ちた。
妊娠している状態を、英語で『expecting』と言うことを思い出した。『Expect』は『期待する』だ。彼女たちは、少なくともこの小さな待合室の数名の妊婦たちは、期待し期待されているのだ。
『母性とかってマジやばいから』
以前、年上の友人がそう言っていたのを思い出した。曰く、腹の子を守るためなら自分が今まで築き上げてきた価値観や倫理観を粉々に粉砕しても構わない、という、『なんか自分じゃないみたいな』使命感に支配されるのだという。
診察室から白いワンピースの女性が出てきた。その細い足首に千登世は目を奪われる。風でも吹いたら折れそうな彼女の身体にはしかし、小さな命が確かに宿っていて、それは下腹部のぽこんと膨らんだ部分で自己主張をしていた。千登世はそれに気圧される。妊婦を見るといつもそうだ。彼女達の力強さ、神聖さ、美しさ、命を二つ抱えているという事実に、ただひたすら圧倒されてしまうのだ。
やっべえな、はみだしてんな自分。
千登世は思う。
産婦人科は命が産み落とされる場所であり、母性や女性性の生産工場のように思える時がある。だがそんな中ひとり膣内にカビをはやしてかゆみにもぞもぞと身をよじる自分は、まるで工場に迷い込んだ場違いな害虫だった。
「またカンジタだと思うけど、一応検査しとこうか」
初老の女医はそう言って診察室の奥を指さした。ホームドラマの母親のように優しくおおらかな女性だが、彼女が指さす先にあるのは手作りのビーフシチューなどではなく、座ると自動的に開脚するあの椅子だ。千登世は頷いて立ち上がり、ジーンズと下着を脱いだ。もうこれに座るのにも何の抵抗もねえな、別に慣れて得するわけでもねーけどな、と思っている内に診察は終わった。
最初は、専門学校に入ってすぐの頃だった。
夜、風呂場であのおぞましい白いおりものを見た千登世は悲鳴を上げ、翌朝この病院で触診を受け更に悲鳴を上げた。カンジタ膣炎は免疫力の低下やストレスで誰でもなるものだから、と女医に言われたが、何の慰めにも解決にもならなかった。以来半年に一度くらいの頻度で、カンジタ菌は増殖し、千登世を痛みかゆみとみじめさの井戸に突き落とすようになった。
現時点で、カンジタ膣炎の予防薬はない。千登世も一時期はサプリメントを試してみたりもしたが、自分にはさほど効果がないらしいと知って、今はせいぜいビタミン摂取に気を遣う程度だ。
受付で、膣内で溶ける錠剤と領収証、保険証を受け取り、それらをがざがざとトートバッグに突っ込みながら病院を出る。西の雲が黒い、と眼球が認識すると同時に、肺が梅雨特有の不快な湿度に身をよじった。駐輪場へ向かいながら、体調は悪くない、今なんかストレスあったっけか、と千登世は考え、愛用の赤い自転車の鍵を外した時、そういや最近『副業』が割と激務だったな、と思い当たった。夏物の販売開始で作業量がぐんと増えたが、若い上司は『ウチなんか楽な方だよ』といういつもの台詞を吐いていたので、そんなもんかなぁと思いながらも作業をこなした。しかし職場の雰囲気は緊迫していて、普段なら見逃してくれる些細なミスでも無駄に叱られた。そういった無意識のストレスがこういう形で出たのかもしれない。
触診直後にサドルなんか座るもんじゃねーと思いながら、千登世はペダルを踏む。黒い雲に追いつかれる前に、と走った。
マンションの階段を登り始めた瞬間、雨が降り始めた。
四階の自宅は無人だった。母親は習い事に行っているはずだ。千登世は食料を求めてキッチンに入った。普段、母が料理をしているその空間は、心なしか少し色褪せて見えた。冷蔵庫を漁ったがすぐに食べられるものはなく、結局千登世は生卵をカップに落とし、醤油を垂らして混ぜたものをつるっと嚥下して虫押さえとした。折角のシステムキッチンも使わなければ意味がない。申し訳ないが私には不向きでね、とIHコンロの表面を撫でてキッチンを出る。
母親は、当然ながら、千登世のこのずぼらさをよく思っていない。野菜を切るだけでサラダになるでしょうとか、肉を焼くだけで一品出来るでしょうとかうるさいが、千登世にとってそれは途方もなく億劫でとんでもなく柄に合わない芸当だった。食事のみならず手の込んだスイーツを写メって見せてくれる友人達は皆宇宙人に見える。
トイレでおりものシートを交換した。便座から立ち上がって下着を引き上げる時、
「うぜえ、よ」
と千登世は小声でこぼした。何かにつけて増殖してんじゃねえよ、ろくに使ってもねーくせに、私の一部のくせに、私を困らすんじゃねーよ、と内心で毒づきながら自室に戻る。タバコの匂いが、ここが自分の帰る巣なのだと本能を刺激した。
今日は副業は休みだが、『本業』がある。おみやさんからメールが来ているだろうと思い、パソコンを起動し、タバコに火を付ける。半分ほど吸い終える頃には、おみやさんから二通のメールを読了していた。
クソめんどいことになってやがる、と千登世はショートボブの髪を掻きむしった。何でも、クライアントが今になってコンテンツの数を変更したいと言い出したらしい。つまり、これまでに組んだものを全て修正する必要がある、とのこと。千登世はタバコを灰皿に押しつける。二通目のメールには、新しいメニューバーで必要なバナー画像のサンプルが三点添付されていた。流石おみやさん、仕事が早い。
うがーと声をあげながら、ひとまずHTMLのエディタを起動した。液晶いっぱいに、ばんっとタグが表示され、千登世は視線を上下左右に揺らして修正箇所を探した。
普通逆じゃないのか、とよく言われる。
千登世の副業は、アパレル系オンラインショップのページ作成業務のアルバイトで、週に四日か五日、八時間働いている。しかし千登世自身が本業と認識しているのは、おみやさんと二人でやっている、このウェブサイト作成代行業務だ。確かに副業の方が就労時間も賃金も上だったが、千登世はそれをあくまでもサブ的に捉えている。
副業はころころ変わったが、本業はもう三年半続いている。自分は接客や事務仕事をやっている時よりも、タグを打ってる時の方が労働の実感を得られるようだ、と思っていたし、いくらでも代えの利く仕事よりも、自分にしか出来ないこと、自分のスキルを活かせる仕事の方が、達成感は断然上だ。
大体の修正内容を把握してから、再びトイレに行った。用を足して立ち上がる時、鈍い痛みのような妙な感覚が下腹部の奥底に走り、あ、と思った時には先ほどの診察で挿入された白い錠剤が便器にぽちゃんと落ちていた。
どこまでも忌々しい輩だな、と千登世はまた舌打ちをする。
二十五にもなってフリーターでいいのか、資格はあるのだからきちんと就職したらどうだ、というのが最近の母親の繰り言だ。いつまでもここに置いておくわけにもいかないぞ、と脅しもしてくるが、千登世には今のところ正社員としてどこかで働く気概も、このマンションを出て行くつもりもなかった。
四ヶ月目に突入した副業にも何とか慣れてきた。このところ厳しかったが、その上カンジタ膣炎にもなったが、通販サイトの商品ページ作成業務はそこまで苦にはならない。少なくとも、これまでの副業よりは幾分かやりがいを感じていたし、やはり自分はある程度自分の我というものを出せる仕事が向いているのだ、と思うようになっていた。もちろん、他の人間にもページ作成はできる。だが撮影の仕方やコピーの付け方、レイアウト等の工程を経ると、同じ商品であっても当然ながら同じ結果にはならない。その点は本業にも通じるものがあった。単純に、他人が望むウェブサイトを具現化することも、HTMLやCSS、JavaScript、その他様々なタグを打つことも、千登世は性に合っていると感じていた。
トイレから自室に戻り、エディタにカタカタとタグを打ち込みながら時折ぐおーと声をあげたりしていると、母さんの言うことももっともなんだよな、という思いにすっと指先をさらわれた。CSSを打っていた手が、一瞬停止する。
確かに高校にしろ専門学校にしろ、同窓生達の大半は厳しい就職活動の末に現在働いていて、東京に出たり、親元から離れて暮らしている。自分が地元に固執しているとは思っていなかったし、音楽系のイベントが多いというだけの理由で東京もいいかな、と考えることもあるが、やはり千登世はこの家がいいのだ。
だって、と千登世は思う。
だって母さんの料理は美味しいし、お父さんは出張が多いけど私には優しいし、何よりここを出たら親父が残してくれた数千枚のCDやレコードが聞けなくなるじゃねえか、と。
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